★鹿嶋市文化財巡り#14「鹿嶋城跡」

鹿嶋城跡公園の一角に記念碑があるのだけれど、
公園の規模がすごく、桜の名所となるほど整備されていて、
記念碑以外には城跡としての面影がないが、
人々に愛されている公園なんだと感じる事が出来た。

鹿嶋氏の居城がありました。鹿島神宮のすぐ隣で、北浦を見渡せる高台にあります。
常陸を支配していただけあって、さぞかし立派な御城が築城されていたと思います。今まで見た城跡の中では、群を抜いて大きいのでびっくりしました。
早咲きの桜、大寒桜かな? もう上野の公園でも、大寒桜が咲いていると先日TVで報道されていました
この公園は、実は桜の名所としても有名なんです。春になりますと満開になったサクラで、鹿島城跡の高台がピンク色に染まる絶景が見られるそうです。
本丸跡地から見た鹿島神宮橋。

常陸平氏鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。

現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。

徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。

また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた。

ウィキペディアより引用

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