梶山古墳の桜並木がほころび始めました。
良く晴れて気温22℃と暖かくなったので、
いよいよ花見の時期が迫ってきましたね。。。。。
★梶山古墳のすぐ近くにもあ一個見つけました。
地元の人が教えてくれました「あの青い屋根の向こうにあるよ」
早速行ってみると・・・有りました有りました。
二こぶラクダのようにこんもりとした丘のような塊が、
すぐ横で畑で作業していた方に聞いたら
「うん、古墳だよ、ひょうたんのような形しているよ」
教えられないと絶対わからない、
道のすぐ横で周りの景色に溶け込んでいる。
名前も分かりませんでしたが確かに古墳でした。
古墳の周りには、こんな花が咲いていましたよ。
ここ梶山の古墳は、実は沢山あるんです。梶山古墳の正式名称は「梶山古墳群」とよばれ、わかっているだけで第1から第4まであるそうです。この古墳も、第○古墳なのかもしれないですね。
小美玉市文化財巡り「三昧塚古墳(さんまいづかこふん)」#15
日曜日で晴れた日に行こうと決めていて、
今朝は子供みたいに朝4時30分に目が覚めてしまった。
暗い内から朝の用事、朝食を済ませ、入念にルートの確認、
新聞に目を通して、早めに出掛け支度をして出発準備、
気温2、1℃、庭は霜が降りて真冬並みの景色、でも行きます。
出発6時45分→到着7時35分=走行時間50分。
走行距離23.3kn・・・潮来へ行くより近い。
遂にここに来ました。感激、感動、驚き・・・デカイし広いし美しい。
芝生で覆われたその姿は神々しく、ピラミッドのように圧倒される。
登り、周り、どこを見てもオーラが凄く、飽きずに見とれてしまう。
これぞパワースポット・・・来て良かった。
★鹿嶋鉄道「鉾田駅跡」
これも普段通っている道路のチョイ先に見つけました。
関鉄グリーンバス鉾田バスターミナルの裏地に
何見案内も無くひっそりと姿が見えます。
駅舎やレールは無くプラットホームが壊されずに残っています。
保存されているというより放置されているイメージで。
何か寂しい思いがこみ上げてきますが、
時代の深さやその時の息吹を感じるし、
プラットホームを見ているとその時の喧騒や人々の喜びや
悲しみまでも思いに馳せるオーラが滲み出ています。
一種のパワースポットでしょうか。
鹿島臨海鉄道では新鉾田駅だったので、鉾田駅があるのかなと調べたら見つけました。
かつて茨城県石岡市の石岡駅と茨城県鉾田市の鉾田駅までを結んでいた鹿島鉄道の鉄道路線の終着駅で、鹿島神宮への参拝にも使われていたそうです。
採算の問題で、 2007年(平成19年)4月1日に、惜しまれながらも廃止となりました。
今ではバスターミナルとして使われているようですが、鉄ヲタさんには有名な場所のようです。石岡駅から茨城空港までは、線路の後にバス専用の道路をもうけ、BRT(バス専用道を走る路線バス)として空港までのバス輸送路になっています。
googleマップでも廃線後がきっちり見られます、
★戦争遺跡・・・鉾田陸軍「監的豪」
普段何度も通っている身近な場所に有って気づかなかった。
標識も看板も無くポツンと置いてある感じで突然目に入る・・・
確かに当時というかその時代を感じさせるオーラが・・・
実際のシーンを想像するには充分なパワーを感じる。
この監的豪、実は所有者が国でも市でもないそうなんです。道路の拡幅工事で、初めて調査されたようです。そして今は、拡幅の土地の所有者の方が土地を提供して、そこに移転いたしました。移転の際には、レールを敷いて移動したようです。
そのときの様子は、産経ニュースにでていますので、ご覧ください。
★鉾田陸軍飛行学校・顕彰碑②
前回は記念碑ばかりで外観が分からなかったので、
買い物ついでにパシャリとしてきました。
緑に囲まれ、桜に守られるようなたたずまいです。
当時の飛行場は、けっこうな広さであったのもうかがえます。
詳しくは、こちらを参照してください。
★鉾田陸軍飛行学校・顕彰碑
ラパンハウスから海浜公園へ行く途中の裏道に見つけました。
この場所に陸軍飛行学校と飛行場が有ったのですね。
この顕彰碑はその敷地のはずれの一角にあって、
桜の木に守られているようにたたずんでいました。
「建立の記」には昭和十五年に開設され、戦況が悪化すると
特攻訓練が始まり少年兵がここから飛び立ったと記されています。
重い歴史に心が打たれます。
陸軍初の特攻隊 戦跡が伝える少年兵たち(NHK)
ウィキペディアの記事
★鹿嶋市文化財巡り#14「鹿嶋城跡」
鹿嶋城跡公園の一角に記念碑があるのだけれど、
公園の規模がすごく、桜の名所となるほど整備されていて、
記念碑以外には城跡としての面影がないが、
人々に愛されている公園なんだと感じる事が出来た。
常陸平氏の鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。
現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。
徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。
また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた。
ウィキペディアより引用
★鹿嶋市文化財巡り#13「津賀城跡②」
城跡と思われる小高い平地はかなり広くて
かなり壮大な権力者なんだろうと想像できる。
そしてここからの眺望がまた素晴らしい。
★鹿嶋市文化財巡り#12「津賀城跡①」
北浦大橋のたもと付近の丘の上に見つけました。
県道18号線から上がって行くと案内看板があって、
さらに上に続く階段が整備されています。
登り切った大地の更に小高いところが城跡でしょうか。
その周りには空堀がめぐらされていました。
津賀氏は、 1524年(大永4年)には高天原(たかまがはら)で鹿島城の宿老・松本尚勝と戦い、これを破ったとされています。 なかなかの武闘派だったんでしょうね。
鹿島・鉾田の地名には、そこに住んでいた武家や豪族の名前がつけられています。はじめは 人の名前っぽい地名だなと思いましたが、実はそういうことだったんですね。
歴史の有名人にちなんで地名をつけるとは、なかなか粋なことだと感じました。