★鉾田市文化財巡り#7「梶山城跡」

目印や案内板も無いので、まったく気継がなかった。
こんな身近な普段使う生活道路にあったんです。
車で走っていたら見ない、または見えても気に留めない。
このつづら折りのスロープは落ち葉と竹枝で覆われ、
来る人を拒むようなオーラを出している。
でも行って見ましょう・・・さあ行きますよ、登ります。
舗装はされているけど荒れた様子。
つづり折りを5回登ると開けた場所に出ました。
そんなに広くしないけど雰囲気は良いです。
大きな桜の木がこの場所を守っているようです。
場所はここらへんです

※梶山城について
梶山城の城主の梶山氏は中居氏の一族であった。中居時幹の2男時家は1300年頃、この地を領して梶山次郎と名乗った。その後、応永23年(1416)、梶山氏は上杉禅秀の乱に荷担したが敗れ、梶山氏は滅亡し、城も廃城となったという。このことからすると、梶山城は早い時期に廃城となってしまったようで、城が単純な構造で、さほど技巧的な部分も見られないのは仕方がないところであろう。

余湖くんの ホームページより引用

こんな所に城趾の入り口があるとは知りませんでした
こんな細い道で登っていきます。津波が来たときの避難路かなとも思ってました
つづら折りの坂道を登っていきます。
いいかげん、疲れてきましたが、頑張りますw
もうちょっとで山頂です。見晴らしの写真、取っておけばよかったなと反省
この状態だと、だれも来ないんだろうなぁ~。看板もないですし・・・・
頂上に到着。御託に漏れず、竹林で囲まれてました。ここに城(その当時はお屋敷みたいな物)が有ったのだと思います。
三峰神社? というらしいです。
北浦が一望できます。当時は畑だけだったので、敵が攻めてきてもすぐにわかったんでしょうね。

梶山城は、県道18号線の「梶山坂下」というバス停のすぐ南側の、比高30mほどの台地上にあった。先端の一部は県道によって削られている。城址にはこの削られた辺りからスロープを登って上がることができる。上がった辺りに祠が4つ祭ってあるが、これが三峰神社であろうか。

 発掘報告書の図面を基にして簡単な鳥瞰図を描いてみた。その図を見ると、直線連郭式の城で三郭ほどが確認される。先端部の主郭は南北に細長い郭で、外側に土塁が連なっている。北側には古墳を利用したかと思われる櫓台がある。この郭からは北浦を遙かに臨むことができる。空堀を隔てて二郭、三郭と続いている。

 しかし、現況は、先端の1郭は道路拡張のためにほぼ削られてしまっている。2郭以降も一面の畑地で、すでに整地されてしまったらしく、きちんとした遺構を見ることはできない。堀がどこにあったのかもよく分からなくなっている。しかし、城址南側の登城道の辺りには写真のように切通しの道が見られ、城址らしい雰囲気を出している。城塁は切岸となって迫り、城の要害性を意識させられる。

 このように梶山城は現在ではその遺構もほとんど確認することができないが、室町中期には廃城となったと思われるので、単純な構造の居館であったものだろう。築城もおそらくは室町初期頃であり、室町初期から中期までの地方豪族の居館のイメージはだいたいこのようなものであったと見てよいだろう。

 余湖くんの ホームページより引用
余湖くんの ホームページより引用

このへんの土地は、昔築城した武家の名前から取ったんでしょうね。
梶山、阿玉、札、秋葉、中居、二重作など つくづく歴史を感じる場所だなとわかります。

★鉾田市文化財巡り#6「中居城跡」

〇割と普段通っている所なのに気づかなかった。
案内板には鎌倉時代初期のもので、
自然の地形を利用して造られ、空堀があった事や、
敷地の広さなども記されてします。
〇この民家なの横から入ります。
さあ行ってみましょう・・・
最初はなだらかで気が踊ります。
道には積もったか枯れ葉でふかふか、竹と杉で覆われています。
かなり登ってキツイと感じた頃に、鳥居が見えてきました。
そしてお堂のようなものが・・・
最後の写真の広いところに城が有ったのかな?
※中居城跡の場所はこちら

県道脇にひっそりとあります。よほど気にしていないと見落としてしまいます。
仲居城は20mほどの高台に築城された、山城でした。自然の地形をうまく生かして築城されていたみたいです。
落ち葉と木々に囲まれた道を上っていきます。
城があったときはもっと見通しが良かったのでしょうか、時の流れが城を守るかごとく、うっそうとした森や竹林になっています。
多分、普段から訪れる方は少ないんでしょうね。滑らないように、注意して上ってます。
空堀か土塁のあとかな?
湖くんのホームページより引用

 中居城は鹿島大掾氏の一族であった田野辺氏が築いた。田野辺政幹の3男時幹はこの地に拠り中居氏を称するようになったという。中居氏は代々この地の領主として君臨していたが、天正19年、中居氏は他のこの地方の領主らと共に佐竹氏に太田城に呼ばれ、そこで鹿行の領主たちの多くは謀殺されてしまった。中居氏はかろうじてその場から脱出することはできたのであるが、中居城を目指して帰還する途中、追っ手に追いつかれてしまい、殺害されたという。

 その時、領民たちは城の堀を掘る作業をしていが、城主の非業の死の知らせを聞き、作業を中断して念仏を唱えた。それ以来この城の未完成の堀は念仏堀と呼ばれるようになったという。思えばこの堀も佐竹に備えて急遽掘らせたものであったのだろう。しかし、合戦をすることもなく、城主は殺害されてしまったのであった。 

余湖くんのホームページより引用

★鉾田市文化財巡り#5「白鳥山観世音」

身近な大洋郵便局の裏山に見つけました。
勢いをつけて坂を上っていくと登り切った所に本殿が、
開けたところには植木や草花が・・・
黄色い「ろうばい」が日差しを受けて美しく、いい香り。
丘の地形を使った大きな墓地の先で見つけたのは、
山の下まで続く竹林でした。
※白鳥山観世音はこちら
白鳥山普門寺が正式名称のようです。かの小林一茶も旅の途中で訪れたと言われてます。さらには、 俳人芭蕉の禅の師とも言われる仏頂禅師はこの札村で江戸初期の1642年2月18日に生まれているそうです。

この急さかを登っていくとお堂があります。ここは、白鳥山という所のようです。
鉾田市の文化財に指定されているお堂。観音様は見ることができませんでした。
今年は梅の開花が早そうですね。昨日も、潮来の道の駅近くで、梅が開花してました。
鹿嶋舌状台地は、竹が多いです。このように立派な竹林もあれば、クマザサのような背の低い竹林も沢山見かけます。

★ぽかぽかツーリングに出掛けよう。

電熱グローブは暖かいものの乾電池使用だったので、
帰りまでは持たないという弱点があって、
山新でバイク用のハンドルカバーを購入したら・・・
これがヨカヨカでした。
晴れた日は素手でもOK!!
寒い日もグリップヒーターてOK!!
これで防寒対策はバッチリ。

昭和の頃、スーパーカブに乗った配達のおじちゃん達が使ってたのと同じです。グリップヒーターつければ、完全こたつ状態で手がホカホカ。お出かけも楽しくなります。

★芽吹き・・・春が楽しみ。

降雪予報のあった翌朝、
晴れて暖かい日差しに誘われ、
庭に出て見つけた芽吹き・・・。
チューリップの芽が出ていました。
氷点下の霜にも耐えて育っていたんですね。

元気に育って、綺麗な花を見せてくださいね。

★鉾田市文化財巡り#4「塔ケ崎十一面観世音」

鉾神社から数分の距離。
安産と子育ての観音様で年二回開かれる大縁日はにぎわうとか。
※場所はこちら

塔ヶ崎の観音様を拝むと、安産となり子宝に恵まれると古くから言い伝えられ、安産祈願のために市内外から多くの方が参拝に訪れます。毎年1月21日、8月21日には大縁日が開催され、参道には多数の露店が出展し、参拝帰りの買い物客で賑わいます。
※鉾田市観光協会HPより引用

★鉾田市文化財巡り#3「徳宿城跡」

県道から脇にそれて、登り坂の中腹に見つけました。
※場所はこちら
※徳宿城についてはこちら(ウィキペディア
時が止まったように静かで、ひっそりとしたたたずまいです。
案内板には「徳宿合戦」で討死したと有って、
巨木がその時の長さを感じさせ、荘厳な境地に浸りました。

道の脇にひっそりとたたずむ目印。
山城だったようで、天守閣まではのぼり道が続きます。
山頂に到着。今は杉の木に覆われていますが、見晴らしのいいお城が有ったと思います。
9代目城主徳宿道幹とその家臣達の供養塔もあります。

徳宿城は、平安時代末期に常陸大掾氏の一族である鹿島成幹の子・徳宿親幹によって築かれました。 1486年(文明18年)、徳宿氏9代の徳宿道幹の頃に水戸城の江戸通雅から攻撃を受け、激しい攻防戦の末に敗れ、徳宿氏は滅亡します。
これにより、徳宿城は廃城となりました。
※引用”御城学のお城を学ぼう

鉾田市文化財巡り#2「鉾神社」

新鉾田の市街地・・・あの魚屋さんの近くで見かけた鉾神社。
大鳥居をくぐると左に手水舎が、更に先へ進むと本殿。
そして鎮座していたのが「さざれ石」・・・国歌・君が代の歌詞にある、
「さざれ石の巌となりて~」のさざれ石です。
案内板には国歌・君が代の由来について書かれていました。

最近、魚屋さんがどんどん減って行っています。元魚屋の自分としては寂しい限りです。
鉾田は有史以来人が定住している土地なので、神社が沢山有ります。
立派な手水鉢。歴史を感じました。
これを見ている皆さんに今年いいことがありますようにと、気持ちを込めてパシャリ!
さざれいし。都内ですと、財務省の中庭にもあるそうです。

四百数十年の伝統をもつ鉾神社は、鉾田城(館)の守護神としての性格を継承してきましたが、明治5年、諏訪神社氏子より分離して鉾神社の氏子となった鉾田村氏の鎮守神として、新治県庁に報告されています。

旧鉾田町の中核的位置を占める社である鉾神社には、中央に大己貴命(大国主命)、左殿に武甕槌命(建御雷之男神 鹿島神宮の主神で鹿島神ともよばれているそうです)、右殿に日本武尊命の三柱の大神が奉られています。

鉾田市観光協会のHPより