今日は満月、月の出は17時5分、そして快晴。
 なので海に向かいました。あらら水平線に雲がぽっかり。
 雲の向こうに月が顔を出して薄っすらとオレンジが控えめ。
 昇るのを眺めているとぐんぐんオレンジ色に染まっていきます。
 更に昇って暗くなると大きなオレンジ色の満月に。
 そして幻想的で神秘的な月明りが海を白く染めていきます。


カメラを買い換えたので、写真が綺麗に撮れるようになりましたよ。



田舎暮らし満喫中
今日は満月、月の出は17時5分、そして快晴。
 なので海に向かいました。あらら水平線に雲がぽっかり。
 雲の向こうに月が顔を出して薄っすらとオレンジが控えめ。
 昇るのを眺めているとぐんぐんオレンジ色に染まっていきます。
 更に昇って暗くなると大きなオレンジ色の満月に。
 そして幻想的で神秘的な月明りが海を白く染めていきます。




見どころ満載で大作になったので三回に分けます。
 やはり生活道路に看板が有りました。
 砂利道をしばらく行くと田園の広がる所に見つけました。
 登り口の案内板の他になにやら危険を知らせる標識が!
 気にせずに入っていきます。
 次回は山道を登ります。
※三階城については、こちら
※別リンク
築城年代は定かではないが安房氏によって築かれたと云われる。 安房氏は徳宿城主徳宿秀幹の長子俊幹が安房に配され安房氏の祖となった。
安房氏は応永年間(1394年~1428年)に宮ヶ崎氏とともに上杉禅秀の乱に参加して討死し滅亡した。その後、三階城には鹿島氏老臣額賀大炊助が居城したという。
三階城は鉾田川東岸の北西に突き出した段丘端に築かれている。
三階城はこの辺りの城としては珍しく、山頂の主郭を同心円状に取り巻くように、二郭、横堀、三郭と配しており、それが遠方から見ると三階に見えたことからこの名が付いたと云われている。
主郭はやや南北に長く土塁が取り巻き、現在西と東にそれぞれ開口部がある。主郭の下はこれを取り巻くように二郭があり、西側は狭く傾斜する。二郭の外側を大きな横堀が巡っているが、その外側部分を曲輪として造成し、曲輪の外側は急峻な切岸となっている。
現状主郭の東から二郭の東へ虎口が直線的に開いているが、これは空堀を廻って主郭まで道を付けているので原因で、これが本来の虎口なのかは検討する必要がある。
※城郭放浪記より引用






東京からの帰りに寄り道してみました。
 この大きさと斬新なフォルムに圧倒されますね!!!
 ゲームがある日しか利用されない臨時駅
 「鹿嶋サッカースタジアム駅」今はひっそりとしていますが、
 ゲーム開催日は、たぶんごったがえしているんでしょうね。




目印や案内板も無いので、まったく気継がなかった。
 こんな身近な普段使う生活道路にあったんです。
 車で走っていたら見ない、または見えても気に留めない。
 このつづら折りのスロープは落ち葉と竹枝で覆われ、
 来る人を拒むようなオーラを出している。
 でも行って見ましょう・・・さあ行きますよ、登ります。
 舗装はされているけど荒れた様子。
 つづり折りを5回登ると開けた場所に出ました。
 そんなに広くしないけど雰囲気は良いです。
 大きな桜の木がこの場所を守っているようです。
場所はここらへんです
※梶山城について
梶山城の城主の梶山氏は中居氏の一族であった。中居時幹の2男時家は1300年頃、この地を領して梶山次郎と名乗った。その後、応永23年(1416)、梶山氏は上杉禅秀の乱に荷担したが敗れ、梶山氏は滅亡し、城も廃城となったという。このことからすると、梶山城は早い時期に廃城となってしまったようで、城が単純な構造で、さほど技巧的な部分も見られないのは仕方がないところであろう。
 余湖くんの ホームページより引用 










梶山城は、県道18号線の「梶山坂下」というバス停のすぐ南側の、比高30mほどの台地上にあった。先端の一部は県道によって削られている。城址にはこの削られた辺りからスロープを登って上がることができる。上がった辺りに祠が4つ祭ってあるが、これが三峰神社であろうか。
発掘報告書の図面を基にして簡単な鳥瞰図を描いてみた。その図を見ると、直線連郭式の城で三郭ほどが確認される。先端部の主郭は南北に細長い郭で、外側に土塁が連なっている。北側には古墳を利用したかと思われる櫓台がある。この郭からは北浦を遙かに臨むことができる。空堀を隔てて二郭、三郭と続いている。
しかし、現況は、先端の1郭は道路拡張のためにほぼ削られてしまっている。2郭以降も一面の畑地で、すでに整地されてしまったらしく、きちんとした遺構を見ることはできない。堀がどこにあったのかもよく分からなくなっている。しかし、城址南側の登城道の辺りには写真のように切通しの道が見られ、城址らしい雰囲気を出している。城塁は切岸となって迫り、城の要害性を意識させられる。
このように梶山城は現在ではその遺構もほとんど確認することができないが、室町中期には廃城となったと思われるので、単純な構造の居館であったものだろう。築城もおそらくは室町初期頃であり、室町初期から中期までの地方豪族の居館のイメージはだいたいこのようなものであったと見てよいだろう。
余湖くんの ホームページより引用

このへんの土地は、昔築城した武家の名前から取ったんでしょうね。
梶山、阿玉、札、秋葉、中居、二重作など つくづく歴史を感じる場所だなとわかります。
〇割と普段通っている所なのに気づかなかった。
 案内板には鎌倉時代初期のもので、
 自然の地形を利用して造られ、空堀があった事や、
 敷地の広さなども記されてします。
 〇この民家なの横から入ります。
 さあ行ってみましょう・・・
 最初はなだらかで気が踊ります。
 道には積もったか枯れ葉でふかふか、竹と杉で覆われています。
 かなり登ってキツイと感じた頃に、鳥居が見えてきました。
 そしてお堂のようなものが・・・
 最後の写真の広いところに城が有ったのかな?
※中居城跡の場所はこちら













 中居城は鹿島大掾氏の一族であった田野辺氏が築いた。田野辺政幹の3男時幹はこの地に拠り中居氏を称するようになったという。中居氏は代々この地の領主として君臨していたが、天正19年、中居氏は他のこの地方の領主らと共に佐竹氏に太田城に呼ばれ、そこで鹿行の領主たちの多くは謀殺されてしまった。中居氏はかろうじてその場から脱出することはできたのであるが、中居城を目指して帰還する途中、追っ手に追いつかれてしまい、殺害されたという。
  その時、領民たちは城の堀を掘る作業をしていが、城主の非業の死の知らせを聞き、作業を中断して念仏を唱えた。それ以来この城の未完成の堀は念仏堀と呼ばれるようになったという。思えばこの堀も佐竹に備えて急遽掘らせたものであったのだろう。しかし、合戦をすることもなく、城主は殺害されてしまったのであった。 
余湖くんのホームページより引用
身近な大洋郵便局の裏山に見つけました。
勢いをつけて坂を上っていくと登り切った所に本殿が、
開けたところには植木や草花が・・・
黄色い「ろうばい」が日差しを受けて美しく、いい香り。
丘の地形を使った大きな墓地の先で見つけたのは、
山の下まで続く竹林でした。
※白鳥山観世音はこちら
※白鳥山普門寺が正式名称のようです。かの小林一茶も旅の途中で訪れたと言われてます。さらには、 俳人芭蕉の禅の師とも言われる仏頂禅師はこの札村で江戸初期の1642年2月18日に生まれているそうです。






鉾神社から数分の距離。
 安産と子育ての観音様で年二回開かれる大縁日はにぎわうとか。
※場所はこちら





 塔ヶ崎の観音様を拝むと、安産となり子宝に恵まれると古くから言い伝えられ、安産祈願のために市内外から多くの方が参拝に訪れます。毎年1月21日、8月21日には大縁日が開催され、参道には多数の露店が出展し、参拝帰りの買い物客で賑わいます。 
※鉾田市観光協会HPより引用
県道から脇にそれて、登り坂の中腹に見つけました。
※場所はこちら
※徳宿城についてはこちら(ウィキペディア)
 時が止まったように静かで、ひっそりとしたたたずまいです。
 案内板には「徳宿合戦」で討死したと有って、
 巨木がその時の長さを感じさせ、荘厳な境地に浸りました。







 徳宿城は、平安時代末期に常陸大掾氏の一族である鹿島成幹の子・徳宿親幹によって築かれました。  1486年(文明18年)、徳宿氏9代の徳宿道幹の頃に水戸城の江戸通雅から攻撃を受け、激しい攻防戦の末に敗れ、徳宿氏は滅亡します。
これにより、徳宿城は廃城となりました。 
※引用”御城学のお城を学ぼう”
新鉾田の市街地・・・あの魚屋さんの近くで見かけた鉾神社。
 大鳥居をくぐると左に手水舎が、更に先へ進むと本殿。
 そして鎮座していたのが「さざれ石」・・・国歌・君が代の歌詞にある、
 「さざれ石の巌となりて~」のさざれ石です。
 案内板には国歌・君が代の由来について書かれていました。








四百数十年の伝統をもつ鉾神社は、鉾田城(館)の守護神としての性格を継承してきましたが、明治5年、諏訪神社氏子より分離して鉾神社の氏子となった鉾田村氏の鎮守神として、新治県庁に報告されています。
旧鉾田町の中核的位置を占める社である鉾神社には、中央に大己貴命(大国主命)、左殿に武甕槌命(建御雷之男神 鹿島神宮の主神で鹿島神ともよばれているそうです)、右殿に日本武尊命の三柱の大神が奉られています。
鉾田市観光協会のHPより
あいにくの曇り空でしたが出掛けてみました。
 ラパンハウスから10分弱の所で
 ①このひっそりとした道の先に梶山古墳が有ります。
 ②樹々で覆われ小高くなっているのが古墳。
  農地開発で削り取られ当時の五分の一程の高さだとか。
 ③案内板によると、ここが梶山古墳群の中心とあるので、
  多くのものは農地になったようです。
 ④石室発掘跡地・・・多くの埋蔵品が出土したようです。
 ⑤古墳の守り神のような大木の桜
 ⑥道の反対には桜並木が古墳を守る兵士のようでした。






———- 鉾田の歴史について 鉾田市教育委員会の資料を引用  —————–
鉾田市は、土地柄大昔から歴史のある地域でもあります。
1.1万年続いた縄文時代から弥生時代、奈良時代まで
 鉾田川や巴川の近くに早くから人が住み始めました。土器や埴輪から、豊かな暮らしぶりがわかっています。北浦の周りには、前方後円墳がみつかっています。鉄が蒲田で作られていました。豪族がこの地域には沢山住んでいたこともわかっています。
2.自然が多い鉾田市には城跡が多い
 鉾田市がある鹿行地域は、舌状台地と言われ小高い台地に沢山の城跡があります。508年前に、徳宿合戦や樅山(もみやま)合戦があったのは有名です。昔の城の周りは急な斜面に「しゃが」が植えられてました。しゃがはつるつるな葉で、敵が滑り落ちるのを狙って植えられたと思われています。
とまぁ、縄文時代から栄えていた土地だったとはまったく知りもしませんでした。
住んでみないとわからない事って、沢山有りますね。