良く晴れた日に大竹海岸に行って
こんな小さな三脚にカメラを付けて撮ってみました。
寄せては返す波の音を動画でご覧ください。
約2分のひと時をどうぞ。


田舎暮らし満喫中
良く晴れた日に大竹海岸に行って
こんな小さな三脚にカメラを付けて撮ってみました。
寄せては返す波の音を動画でご覧ください。
約2分のひと時をどうぞ。

エジプト出身のお相撲さんにも同じような名前の力士がいましたが、茨城もいました!
DIYマスターが遊びに来てくれたので、懐石旅館「尋」にご飯を食べに行ったとき、国道51号が珍し渋滞してました。
普段は全く混まないのに・・・と思っていたら、原因はこれ! 砂嵐でした。
ちょうどこの時期は、畑に何も作物が植わっていないうえ、鹿島大地の土は細かいので、強風(春の嵐)が吹くとこのような砂嵐が起きるそうです。
写真はほんの一例ですが、この砂嵐は海の先き遠くまで舞っていました。「尋」は高台にあるので、海の上が茶色?黄色になっているのがよくわかりました。
「尋」は完全予約のお店なので、行くときには事前に電話をして予約をお忘れなく!
目の前に広がる海を見ながらの食事は最高です。


城跡と思われる小高い平地はかなり広くて
かなり壮大な権力者なんだろうと想像できる。
そしてここからの眺望がまた素晴らしい。






窓枠に設置してあった日差し除けの障子を
全て取り払ったら見事な光景に・・・
いやいや絶景でしょう>>>>>>>>。
180度のオーシャンビューが誕生しました。





ほぼ快晴だったので鹿行大橋のたもとへ来てみたら、
雲が寄ってきたり退いたりと多彩な表情を見せてくれました。
鹿行大橋の背中に沈む夕日・・・キレイでした。





鹿行(ろっこう)大橋は、北浦両岸の鹿嶋市と行方市が合併したことにより、それぞれの頭文字を取って鹿行大橋としたそうです。全長は416m(二代目)です。
初代の橋は全長401mで、1964年着工、1968年完成しました。当初はまだ合併をしていなかったので、鹿行大橋とは言わなかったと思います。
もともと1車線ほどの大きさだったので、橋の途中にすれ違いのための待避ゾーンがあったりなどして使い勝手も悪かったし、大型車が通行できないなどの問題もあり、2002年より二代目の工事が始まりました。2011年の東北震災の影響で初代が崩れてしまったため、震災の翌年の2012年4月に1年前倒しして開通したそうです。



北浦大橋に沈む夕日が奇麗だと聞いたので
早めに行って撮影ポイントを探して待っていると、
何やら雲が、雲が沈む夕日の前に層になって連なっている。
今回はやや残念でしたが沈んだ夕日が上空の雲を白く
照らしているのも奇麗でした。
北浦には、鹿島側から神宮橋、新神宮橋、鹿嶋線橋梁、北浦大橋、鹿行大橋の5本の橋が架かっています。愛称は、「サン・ブリッジ」です。淡水湖にかかる橋梁としては、日本第二位の長さ1295.8mの長さです。




この日は雲が出てしまってましたが、沈む夕日が白い橋に映り込んで、オレンジ色に変化する様は絶景です。百聞は一見にしかず、ぜひ見にいらしてください。
今日は満月、月の出は17時5分、そして快晴。
なので海に向かいました。あらら水平線に雲がぽっかり。
雲の向こうに月が顔を出して薄っすらとオレンジが控えめ。
昇るのを眺めているとぐんぐんオレンジ色に染まっていきます。
更に昇って暗くなると大きなオレンジ色の満月に。
そして幻想的で神秘的な月明りが海を白く染めていきます。




見どころ満載で大作になったので三回に分けます。
やはり生活道路に看板が有りました。
砂利道をしばらく行くと田園の広がる所に見つけました。
登り口の案内板の他になにやら危険を知らせる標識が!
気にせずに入っていきます。
次回は山道を登ります。
※三階城については、こちら
※別リンク
築城年代は定かではないが安房氏によって築かれたと云われる。 安房氏は徳宿城主徳宿秀幹の長子俊幹が安房に配され安房氏の祖となった。
安房氏は応永年間(1394年~1428年)に宮ヶ崎氏とともに上杉禅秀の乱に参加して討死し滅亡した。その後、三階城には鹿島氏老臣額賀大炊助が居城したという。
三階城は鉾田川東岸の北西に突き出した段丘端に築かれている。
三階城はこの辺りの城としては珍しく、山頂の主郭を同心円状に取り巻くように、二郭、横堀、三郭と配しており、それが遠方から見ると三階に見えたことからこの名が付いたと云われている。
主郭はやや南北に長く土塁が取り巻き、現在西と東にそれぞれ開口部がある。主郭の下はこれを取り巻くように二郭があり、西側は狭く傾斜する。二郭の外側を大きな横堀が巡っているが、その外側部分を曲輪として造成し、曲輪の外側は急峻な切岸となっている。
現状主郭の東から二郭の東へ虎口が直線的に開いているが、これは空堀を廻って主郭まで道を付けているので原因で、これが本来の虎口なのかは検討する必要がある。
※城郭放浪記より引用






東京からの帰りに寄り道してみました。
この大きさと斬新なフォルムに圧倒されますね!!!
ゲームがある日しか利用されない臨時駅
「鹿嶋サッカースタジアム駅」今はひっそりとしていますが、
ゲーム開催日は、たぶんごったがえしているんでしょうね。




目印や案内板も無いので、まったく気継がなかった。
こんな身近な普段使う生活道路にあったんです。
車で走っていたら見ない、または見えても気に留めない。
このつづら折りのスロープは落ち葉と竹枝で覆われ、
来る人を拒むようなオーラを出している。
でも行って見ましょう・・・さあ行きますよ、登ります。
舗装はされているけど荒れた様子。
つづり折りを5回登ると開けた場所に出ました。
そんなに広くしないけど雰囲気は良いです。
大きな桜の木がこの場所を守っているようです。
場所はここらへんです
※梶山城について
梶山城の城主の梶山氏は中居氏の一族であった。中居時幹の2男時家は1300年頃、この地を領して梶山次郎と名乗った。その後、応永23年(1416)、梶山氏は上杉禅秀の乱に荷担したが敗れ、梶山氏は滅亡し、城も廃城となったという。このことからすると、梶山城は早い時期に廃城となってしまったようで、城が単純な構造で、さほど技巧的な部分も見られないのは仕方がないところであろう。
余湖くんの ホームページより引用










梶山城は、県道18号線の「梶山坂下」というバス停のすぐ南側の、比高30mほどの台地上にあった。先端の一部は県道によって削られている。城址にはこの削られた辺りからスロープを登って上がることができる。上がった辺りに祠が4つ祭ってあるが、これが三峰神社であろうか。
発掘報告書の図面を基にして簡単な鳥瞰図を描いてみた。その図を見ると、直線連郭式の城で三郭ほどが確認される。先端部の主郭は南北に細長い郭で、外側に土塁が連なっている。北側には古墳を利用したかと思われる櫓台がある。この郭からは北浦を遙かに臨むことができる。空堀を隔てて二郭、三郭と続いている。
しかし、現況は、先端の1郭は道路拡張のためにほぼ削られてしまっている。2郭以降も一面の畑地で、すでに整地されてしまったらしく、きちんとした遺構を見ることはできない。堀がどこにあったのかもよく分からなくなっている。しかし、城址南側の登城道の辺りには写真のように切通しの道が見られ、城址らしい雰囲気を出している。城塁は切岸となって迫り、城の要害性を意識させられる。
このように梶山城は現在ではその遺構もほとんど確認することができないが、室町中期には廃城となったと思われるので、単純な構造の居館であったものだろう。築城もおそらくは室町初期頃であり、室町初期から中期までの地方豪族の居館のイメージはだいたいこのようなものであったと見てよいだろう。
余湖くんの ホームページより引用

このへんの土地は、昔築城した武家の名前から取ったんでしょうね。
梶山、阿玉、札、秋葉、中居、二重作など つくづく歴史を感じる場所だなとわかります。