目が覚めて外を見ると朝靄に覆われて一面白い世界が、
まるで高原リゾートのように幻想的な雰囲気。
ここ梶山はいろいろな顔を見せるので飽きない・・・
自然と共に過ごすのはとても素敵です。



田舎暮らし満喫中
目が覚めて外を見ると朝靄に覆われて一面白い世界が、
まるで高原リゾートのように幻想的な雰囲気。
ここ梶山はいろいろな顔を見せるので飽きない・・・
自然と共に過ごすのはとても素敵です。


ご近所で見つけた梅の木をパシャリパシャリと
どれもほぼ満開で青い空に映えてキレイです。
もうそこまで、春が来ているんですね。
この後は、桜が楽しみでしかたありません。






ラパンハウスから海浜公園へ行く途中の裏道に見つけました。
この場所に陸軍飛行学校と飛行場が有ったのですね。
この顕彰碑はその敷地のはずれの一角にあって、
桜の木に守られているようにたたずんでいました。
「建立の記」には昭和十五年に開設され、戦況が悪化すると
特攻訓練が始まり少年兵がここから飛び立ったと記されています。
重い歴史に心が打たれます。
陸軍初の特攻隊 戦跡が伝える少年兵たち(NHK)
ウィキペディアの記事





県道18号線を左に折れて汲上方面へ進むと
グループホーム「ポコ・ア・ポコ大洋」を過ぎたら突然、
右側の視界が開けて、なんととなんと開墾しています。
あの巨大な杉の木立が広範囲にわたって無くなっている。
重機が三台も入ってうなりをあげて動いています。
両側が杉木立で森の中の街道の風情だったのが、
片方が完全に無くなってています。
畑にでもするのでしょうか・・・また行って見て来ますね。






今日は残念なことに白鳥は餌取りに行っているらしく
一羽も見ることができませんでした。
遠くからいらしたお二人がパンをちぎってあげていたので、
動画を撮ってみました。
こちらの白鳥の里のブログもご覧ください。
鳥獣保護区「白鳥の里」
★鳥獣保護区「白鳥の里」パート2
鹿嶋城跡公園の一角に記念碑があるのだけれど、
公園の規模がすごく、桜の名所となるほど整備されていて、
記念碑以外には城跡としての面影がないが、
人々に愛されている公園なんだと感じる事が出来た。









常陸平氏の鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。
現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。
徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。
また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた。
ウィキペディアより引用
葉を広げてきたチューリップ
青空に這える梅の木・・・。
着実に春が近づいてきています。


ちょっとした高台からオレンジ色に染まる空。
いつまででも見ていたいような静かなここちになります。




良く晴れた日に大竹海岸に行って
こんな小さな三脚にカメラを付けて撮ってみました。
寄せては返す波の音を動画でご覧ください。
約2分のひと時をどうぞ。

エジプト出身のお相撲さんにも同じような名前の力士がいましたが、茨城もいました!
DIYマスターが遊びに来てくれたので、懐石旅館「尋」にご飯を食べに行ったとき、国道51号が珍し渋滞してました。
普段は全く混まないのに・・・と思っていたら、原因はこれ! 砂嵐でした。
ちょうどこの時期は、畑に何も作物が植わっていないうえ、鹿島大地の土は細かいので、強風(春の嵐)が吹くとこのような砂嵐が起きるそうです。
写真はほんの一例ですが、この砂嵐は海の先き遠くまで舞っていました。「尋」は高台にあるので、海の上が茶色?黄色になっているのがよくわかりました。
「尋」は完全予約のお店なので、行くときには事前に電話をして予約をお忘れなく!
目の前に広がる海を見ながらの食事は最高です。

