★杉林道開墾のその後は

随分と開墾が進んで終盤が近づいた様子で、
大物は片付いて広範囲に土が見えています。
道路よりだいぶ深く掘られていて空堀のよう
さてここは何になるのでしょう・・・。

気になるその前は、こちら

だいぶ広く開墾してますね。太陽光プラントでもできるんでしょうか? なにげに、茨城は日照時間が長い事でも有名だそうです。
この土が、春の大砂嵐の原因の元凶です。この木材で家(ログハウス)作ったらいいだろうなぁ

★鹿嶋鉄道「鉾田駅跡」

これも普段通っている道路のチョイ先に見つけました。
関鉄グリーンバス鉾田バスターミナルの裏地に
何見案内も無くひっそりと姿が見えます。
駅舎やレールは無くプラットホームが壊されずに残っています。
保存されているというより放置されているイメージで。
何か寂しい思いがこみ上げてきますが、
時代の深さやその時の息吹を感じるし、
プラットホームを見ているとその時の喧騒や人々の喜びや
悲しみまでも思いに馳せるオーラが滲み出ています。
一種のパワースポットでしょうか。

鹿島臨海鉄道では新鉾田駅だったので、鉾田駅があるのかなと調べたら見つけました。
かつて茨城県石岡市の石岡駅と茨城県鉾田市の鉾田駅までを結んでいた鹿島鉄道の鉄道路線の終着駅で、鹿島神宮への参拝にも使われていたそうです。
採算の問題で、 2007年(平成19年)4月1日に、惜しまれながらも廃止となりました。

今ではバスターミナルとして使われているようですが、鉄ヲタさんには有名な場所のようです。石岡駅から茨城空港までは、線路の後にバス専用の道路をもうけ、BRT(バス専用道を走る路線バス)として空港までのバス輸送路になっています。
googleマップでも廃線後がきっちり見られます、

東日本大震災で崩壊したプラットホーム。
なぜかプラットホームだけノコされていました。かっては鹿島神宮参拝で多くの人で賑わっていたようです。
この先に、ずーっと線路が続いていたようです。
街の真ん中に、線路もなく駅の跡だけ残っています。不思議ですね。
鉾田から鹿島神宮まで伸びるはずだったんですかね?

★悲しい出来事⇒シンボルツリー「もみの木」の伐採

用事を済ませ午後に戻ったら、なんとなんとあの「もみの木」の
伐採の最中でビックリ仰天・・・これで景色が変わってしまう。
枝を全て掃い>>ロープを掛け>>根本をチェーンソーでブルブル
ロープで引っ張りながら>>安全な場所に倒す>>
横たわった太い幹を切り刻む・・・次の言葉が出ません。
粉砕したもみの木の葉を分けてもらいテーブルに置くと、
いい香り、森の中の香り・・・癒されるうっつ!!!!!

立派なもみの木。でもこれがあると風通しが悪くなるとのことで、伐採されることになりました(涙
まずは、枝や葉を切り落としていきます。
こんなに高いんです。伐採は忍びないんですけど、うちの木ではないので。日本には借景といういい言葉もあるだけに、残念です。
電信柱よりも高いんです。下から順番に枝葉を切り落として行ってます。
枝葉を切り終えたら、電線の上に倒れないように上の方からロープで押さえて、伐採開始!
あーーーーーー 倒れるぞーーーーーーーーー
なくなってしまいました。こうしてみると、見通しが良くなったなとも思いましたが、寂しいですね
思い出の葉をもらってきて、自然のアロマを楽しんでいます。テーブルの天板、今後くるみ油でも塗ってみようかな?

★今流行の「PALM TREE SHOP」

深作農園の裏の道を走っていたら英語の看板が
なになに、この鉾田の田舎に横文字のショップ?
英語が読めなくても「ヤシの木」を売る専門店だと思います。
人気が有って結構な値段でも売れていると聞きます。
ハワイのような雰囲気・・・庭にシンボルツリー・・・か

鉾田は空が高く青いので、まるでハワイにいるような感じです
オアフ島のジャングルはこんな感じなんでしょうね。まさに、鉾田ハワイアンガーデン!
土の感じも、アメリカのTVドラマ Hawaii FIVE-Oでみた映像そのもの。
青い空、白い雲。あと虹があれば、ハワイですね

★戦争遺跡・・・鉾田陸軍「監的豪」

普段何度も通っている身近な場所に有って気づかなかった。
標識も看板も無くポツンと置いてある感じで突然目に入る・・・
確かに当時というかその時代を感じさせるオーラが・・・
実際のシーンを想像するには充分なパワーを感じる。

この監的豪、実は所有者が国でも市でもないそうなんです。道路の拡幅工事で、初めて調査されたようです。そして今は、拡幅の土地の所有者の方が土地を提供して、そこに移転いたしました。移転の際には、レールを敷いて移動したようです。
そのときの様子は、産経ニュースにでていますので、ご覧ください。

道路の拡張工事でちょっと移転しましたが、当時のままを移動をしました。地元の人以外は、だれも戦争遺跡だとは気がつかないと思います。
この穴から除いて、着弾の確認をしていたと思います。
だいぶ痛んできていますが、文化財としての価値やら所有者不明等の諸問題で、保存もすることができまいようです。このまま朽ち果ててしまうのか心配です
観測は、色の付いた的めがけて爆薬の入っていない爆弾を投下して、「緑よし」「橙よし」のように報告をしていたようです
結構崩壊が進んでいます。でも、当時のままの姿をしっかり保っている、戦争遺跡です。
中には誰でも入れるようです。
今度入ってみて、中からのぞいてみようかな?
何も言わずひっそりとたたずんでますが、いろいろな歴史を見てきた証人なんですね。

★鉾田陸軍飛行学校・顕彰碑②

前回は記念碑ばかりで外観が分からなかったので、
買い物ついでにパシャリとしてきました。
緑に囲まれ、桜に守られるようなたたずまいです。

当時の飛行場は、けっこうな広さであったのもうかがえます。
詳しくは、こちらを参照してください。

★鉾田陸軍飛行学校・顕彰碑

ラパンハウスから海浜公園へ行く途中の裏道に見つけました。
この場所に陸軍飛行学校と飛行場が有ったのですね。
この顕彰碑はその敷地のはずれの一角にあって、
桜の木に守られているようにたたずんでいました。
「建立の記」には昭和十五年に開設され、戦況が悪化すると
特攻訓練が始まり少年兵がここから飛び立ったと記されています。
重い歴史に心が打たれます。

陸軍初の特攻隊 戦跡が伝える少年兵たち(NHK)
ウィキペディアの記事

顕彰碑のまわりは、桜の木が沢山植えられています。春になるとさぞかし綺麗に咲くことだと思います。
ここは、陸軍で初めて特攻隊が編成された場所でもあります。
鉾田に特攻訓練の基地があったとは知りませんでした。畑の中にぽつんとあるので、よほどじゃないと気がつかなかったです。
戦没者の名簿。お国のために尽くされたことに、感謝いたします。 春になったら、桜を見ながら一献できれば。

★なんと開墾しているではありませんか!!!!!

県道18号線を左に折れて汲上方面へ進むと
グループホーム「ポコ・ア・ポコ大洋」を過ぎたら突然、
右側の視界が開けて、なんととなんと開墾しています。
あの巨大な杉の木立が広範囲にわたって無くなっている。
重機が三台も入ってうなりをあげて動いています。
両側が杉木立で森の中の街道の風情だったのが、
片方が完全に無くなってています。
畑にでもするのでしょうか・・・また行って見て来ますね。

鹿島舌状台地は、まだまだ手つかずな自然?が沢山あります。杉の林も原生林状態です。
手入(間伐)れもしていないので、ご覧の通り伸び放題! 
重機を使えば、自然なんてあっという間に人間の手に落ちるのは寂しいです
この一コマだけ見てると、開拓されてるアマゾンの原生林のようですね
畑になるのか、太陽光発電所ができるのかな?

★鹿嶋市文化財巡り#14「鹿嶋城跡」

鹿嶋城跡公園の一角に記念碑があるのだけれど、
公園の規模がすごく、桜の名所となるほど整備されていて、
記念碑以外には城跡としての面影がないが、
人々に愛されている公園なんだと感じる事が出来た。

鹿嶋氏の居城がありました。鹿島神宮のすぐ隣で、北浦を見渡せる高台にあります。
常陸を支配していただけあって、さぞかし立派な御城が築城されていたと思います。今まで見た城跡の中では、群を抜いて大きいのでびっくりしました。
早咲きの桜、大寒桜かな? もう上野の公園でも、大寒桜が咲いていると先日TVで報道されていました
この公園は、実は桜の名所としても有名なんです。春になりますと満開になったサクラで、鹿島城跡の高台がピンク色に染まる絶景が見られるそうです。
本丸跡地から見た鹿島神宮橋。

常陸平氏鹿島政幹が平安末期に築いた城である。それ以降鹿島氏の居城となった。本丸の跡地は現在、鹿島城山公園として市民の憩いの場になっている。 築城以来、改修や拡大をつづけてきたが、特に知られるのは鹿島義幹による大改修といわれる。 かつて鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまでであったという。

現在実質的な鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城させた。佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書)。

徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興した。 現在の国道51号線茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わっている。じつに国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造った。

また県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって「平和の時代には不要」として埋められた。

ウィキペディアより引用