ラテスに移した薪のラックが強度不足なので、DIYしました。
山新で必要な枚数とサイズにカットしてもらったので、
組み立て、ねじ止めするだけで意外と簡単に出来ました。
掃除の再に移動できるようキャスターも付けてバッチリ。
具材全部入れて4.000円くらいで済みました。



田舎暮らし満喫中
ラテスに移した薪のラックが強度不足なので、DIYしました。
山新で必要な枚数とサイズにカットしてもらったので、
組み立て、ねじ止めするだけで意外と簡単に出来ました。
掃除の再に移動できるようキャスターも付けてバッチリ。
具材全部入れて4.000円くらいで済みました。
ラパンハウスの庭には、二羽鶏はいませんが、小鳥たちが毎朝やってきて、綺麗な歌を奏でてくれます。
今までは写真だけでしたが、カメラを買い換えたおかげで動画も配信
できるようになりましたので、毎朝の歌会を御拝聴ください。
今日は満月、月の出は17時5分、そして快晴。
なので海に向かいました。あらら水平線に雲がぽっかり。
雲の向こうに月が顔を出して薄っすらとオレンジが控えめ。
昇るのを眺めているとぐんぐんオレンジ色に染まっていきます。
更に昇って暗くなると大きなオレンジ色の満月に。
そして幻想的で神秘的な月明りが海を白く染めていきます。
見どころ満載で大作になったので三回に分けます。
やはり生活道路に看板が有りました。
砂利道をしばらく行くと田園の広がる所に見つけました。
登り口の案内板の他になにやら危険を知らせる標識が!
気にせずに入っていきます。
次回は山道を登ります。
※三階城については、こちら
※別リンク
築城年代は定かではないが安房氏によって築かれたと云われる。 安房氏は徳宿城主徳宿秀幹の長子俊幹が安房に配され安房氏の祖となった。
安房氏は応永年間(1394年~1428年)に宮ヶ崎氏とともに上杉禅秀の乱に参加して討死し滅亡した。その後、三階城には鹿島氏老臣額賀大炊助が居城したという。
三階城は鉾田川東岸の北西に突き出した段丘端に築かれている。
三階城はこの辺りの城としては珍しく、山頂の主郭を同心円状に取り巻くように、二郭、横堀、三郭と配しており、それが遠方から見ると三階に見えたことからこの名が付いたと云われている。
主郭はやや南北に長く土塁が取り巻き、現在西と東にそれぞれ開口部がある。主郭の下はこれを取り巻くように二郭があり、西側は狭く傾斜する。二郭の外側を大きな横堀が巡っているが、その外側部分を曲輪として造成し、曲輪の外側は急峻な切岸となっている。
現状主郭の東から二郭の東へ虎口が直線的に開いているが、これは空堀を廻って主郭まで道を付けているので原因で、これが本来の虎口なのかは検討する必要がある。
※城郭放浪記より引用
東京からの帰りに寄り道してみました。
この大きさと斬新なフォルムに圧倒されますね!!!
ゲームがある日しか利用されない臨時駅
「鹿嶋サッカースタジアム駅」今はひっそりとしていますが、
ゲーム開催日は、たぶんごったがえしているんでしょうね。
鹿嶋市のショッピングエリアが続くバイパスを曲がり少しの所の
鮨・会席「さか乃志田」に行きました。2回目です。
店に入ると繁盛している賑わいが伝わってくる店です。
人気メニューのランチをオーダーすると・・・
鮨と懐石が味わえるセットで、ボリュウムもスゴイ・・・
多すぎるかなと思いも、旨くて旨くてたいらげてしまいました。
舌鼓を打っているさなかに、なんとなんとシーコが現れましたゾ!
席一つ離れたすくぞばでジーコが食事中。
どうもお馴染みさんらしく女将さんともにこやかに話してる。
すとるそこに鹿嶋アントーラーズの現監督がスタッフと共に来店
そして気さくにパシャとしてくれたのがこの一枚。
目印や案内板も無いので、まったく気継がなかった。
こんな身近な普段使う生活道路にあったんです。
車で走っていたら見ない、または見えても気に留めない。
このつづら折りのスロープは落ち葉と竹枝で覆われ、
来る人を拒むようなオーラを出している。
でも行って見ましょう・・・さあ行きますよ、登ります。
舗装はされているけど荒れた様子。
つづり折りを5回登ると開けた場所に出ました。
そんなに広くしないけど雰囲気は良いです。
大きな桜の木がこの場所を守っているようです。
場所はここらへんです
※梶山城について
梶山城の城主の梶山氏は中居氏の一族であった。中居時幹の2男時家は1300年頃、この地を領して梶山次郎と名乗った。その後、応永23年(1416)、梶山氏は上杉禅秀の乱に荷担したが敗れ、梶山氏は滅亡し、城も廃城となったという。このことからすると、梶山城は早い時期に廃城となってしまったようで、城が単純な構造で、さほど技巧的な部分も見られないのは仕方がないところであろう。
余湖くんの ホームページより引用
梶山城は、県道18号線の「梶山坂下」というバス停のすぐ南側の、比高30mほどの台地上にあった。先端の一部は県道によって削られている。城址にはこの削られた辺りからスロープを登って上がることができる。上がった辺りに祠が4つ祭ってあるが、これが三峰神社であろうか。
発掘報告書の図面を基にして簡単な鳥瞰図を描いてみた。その図を見ると、直線連郭式の城で三郭ほどが確認される。先端部の主郭は南北に細長い郭で、外側に土塁が連なっている。北側には古墳を利用したかと思われる櫓台がある。この郭からは北浦を遙かに臨むことができる。空堀を隔てて二郭、三郭と続いている。
しかし、現況は、先端の1郭は道路拡張のためにほぼ削られてしまっている。2郭以降も一面の畑地で、すでに整地されてしまったらしく、きちんとした遺構を見ることはできない。堀がどこにあったのかもよく分からなくなっている。しかし、城址南側の登城道の辺りには写真のように切通しの道が見られ、城址らしい雰囲気を出している。城塁は切岸となって迫り、城の要害性を意識させられる。
このように梶山城は現在ではその遺構もほとんど確認することができないが、室町中期には廃城となったと思われるので、単純な構造の居館であったものだろう。築城もおそらくは室町初期頃であり、室町初期から中期までの地方豪族の居館のイメージはだいたいこのようなものであったと見てよいだろう。
余湖くんの ホームページより引用
このへんの土地は、昔築城した武家の名前から取ったんでしょうね。
梶山、阿玉、札、秋葉、中居、二重作など つくづく歴史を感じる場所だなとわかります。
〇割と普段通っている所なのに気づかなかった。
案内板には鎌倉時代初期のもので、
自然の地形を利用して造られ、空堀があった事や、
敷地の広さなども記されてします。
〇この民家なの横から入ります。
さあ行ってみましょう・・・
最初はなだらかで気が踊ります。
道には積もったか枯れ葉でふかふか、竹と杉で覆われています。
かなり登ってキツイと感じた頃に、鳥居が見えてきました。
そしてお堂のようなものが・・・
最後の写真の広いところに城が有ったのかな?
※中居城跡の場所はこちら
中居城は鹿島大掾氏の一族であった田野辺氏が築いた。田野辺政幹の3男時幹はこの地に拠り中居氏を称するようになったという。中居氏は代々この地の領主として君臨していたが、天正19年、中居氏は他のこの地方の領主らと共に佐竹氏に太田城に呼ばれ、そこで鹿行の領主たちの多くは謀殺されてしまった。中居氏はかろうじてその場から脱出することはできたのであるが、中居城を目指して帰還する途中、追っ手に追いつかれてしまい、殺害されたという。
その時、領民たちは城の堀を掘る作業をしていが、城主の非業の死の知らせを聞き、作業を中断して念仏を唱えた。それ以来この城の未完成の堀は念仏堀と呼ばれるようになったという。思えばこの堀も佐竹に備えて急遽掘らせたものであったのだろう。しかし、合戦をすることもなく、城主は殺害されてしまったのであった。
余湖くんのホームページより引用
身近な大洋郵便局の裏山に見つけました。
勢いをつけて坂を上っていくと登り切った所に本殿が、
開けたところには植木や草花が・・・
黄色い「ろうばい」が日差しを受けて美しく、いい香り。
丘の地形を使った大きな墓地の先で見つけたのは、
山の下まで続く竹林でした。
※白鳥山観世音はこちら
※白鳥山普門寺が正式名称のようです。かの小林一茶も旅の途中で訪れたと言われてます。さらには、 俳人芭蕉の禅の師とも言われる仏頂禅師はこの札村で江戸初期の1642年2月18日に生まれているそうです。
壁、天井、ドア、テーブル、衝立に至るまで、
店内の内装は全て店主が手作りしたそうです。
二回には宿泊施設の部屋が5部屋あって
海の見える眺望も格別です。